ボーダーライン・ライフライン



来神時代。
NOT親子、NOT優しさ。



 本当に時折だけれど、授業をサボタージュして屋上で一人、本を読んでいることがある。理由はない。ただ衝動的に、本を読みたくて仕方がなくなるのだ。普段はそつなく優等生未満程度に教師の覚えもいいので、たまに訪れるそういうどうしようもない欲望の前には、素直に従っていた。
 読む本にこだわりはない。翻訳ではあるがシェイクスピアも読んだし、宮沢賢治も司馬遼太郎も読んだ。軍記小説でも恋愛小説でもマニアックな学術書でも本屋で平積みされている類の本でも、何でも読む。そこに活字があるだけでいい。パラリとページをめくる動作も好きだ。
 外の喧騒も、近づいてくる足音も、全部全部かき消すほどに、紙の中に溢れる異世界に集中していたい。
 だから、紙の上に己の知らない影ができていても、気にしないふりをぎりぎりまで決め込んだ。
「芥川龍之介?」
「ああ」
 影が喋った。青空が話しかけてきたと錯覚するような声だったので、青空が喋っているのだろうと思うことにして、視線は上げないまま答える。
「面白い?」
「本は何でも面白い」
「活字中毒だねえ」
「かもな」
 門田は文字を追う。つむじに視線を感じていた。
 軽やかに響く青空のテノールは、雨のように降り注いだ。本に落ちる影がちょこちょこと小動物の戯れのように動くのが、ちょっと鬱陶しい。
「知ってる? 本ばっかり読んでると、頭に活字の虫が湧くんだよ」
「なんだそりゃ」
「俺が今考えたの」
「そりゃ知らねえよ」
「本の虫が湧いたら大変だよ、耳からミミズみたいな文字の虫がぞろぞろぞろって出てくるんだよ。気持ち悪いよ。嫌だよ俺、ドタチンの耳からミミズみたいな虫がぞろぞろ出てくるなんて。あ、ミミズみたいな虫って言うのはおかしいかな。元々、ミミズは耳図って書いて、墨で線を引くようにウニョウニョと耳からでてくる虫のことを言うんだ。肥えた土にいる虫をミミズと呼ぶようになったのは耳図に似てるからなんだよ。逆説だ」
 しゃがみこんだ身体が下から覗きこんでくる。胡坐をかいた膝に今にも乗り上がりそうな姿勢で、その声は真面目ぶった口調で大ボラを吹いた。
 今考えたばかりの嘘に、少しずつ肉付けをして立派なでたらめの出来上がりだ。それだけ妄想ができたら作家になれるだろうと思ったが、こいつの書くストーリーはろくでもないだろうことは予想できた。
 門田はため息をついて、本を閉じた。
「臨也。構ってほしけりゃそうと言え」
 ようやく顔をあげてやると、影は――臨也は満足げににこりと笑った。その表情が、くっきりと青空を背景に浮かぶ。男のくせに、花が綻ぶような、という表現がよく似合う。
 本を横に置くと、待ってましたとばかりにそそくさと臨也が膝へ乗り上げてきた。
 軽いな、と門田は思う。臨也の身体が、だ。あの平和島静雄と互角に渡り合っているとは、見た目だけならば到底思えないほどに。
 膝に乗り上がっても、ちっとも重いようには感じなかった。臨也の特等席である。
「言わなくてもわかってくれるから言わない」
「言わなくてもいいことは言うのにな」
 甘えるように肩口に頬を擦り寄せるのが、マーキングする獣のようだった。
 猫は一番居心地のよい場所を知っているという。気まぐれに膝を占領して戯れ勝手に離れていく臨也を、猫のようだと門田はいつだったか言ったが、臨也は決して猫にはなれない自分もわかっていた。俺が猫だったらここから一生離れないだろうなぁ、と本気で思うくらいにはそこを気にいっていたが、生憎と折原臨也はただの人間で、しかも常に行動していないと死んでしまう類の回遊魚に近い性質を持っている。
 ただの猫ならば幾分かわいいものを。
「もうすぐ他校生たち片づけたシズちゃんが来るだろうから、それまでちょっと休ませてね。あーあ、やんなっちゃうな、あの化け物!」
「お前がちょっかい掛けるからだろうが」
「だぁって、面白くない?」
 背中を預けていたと思ったら身を捩ってこちらを向いて、鼻頭にちゅっとキスを落とす。それから肩口に頭を預けてマーキングするようにぐりぐりと頬ずりをして、また背中を預けてしゃがみこむ。
 じっとしていると死んでしまう生き物のように、膝の上にいながら落ち着かない臨也の腰に腕をまわして落ち着かせた。平和島静雄ほどの力はないが、こんな細い身体を押し込めるくらいは容易かったし、むしろこれくらいの力があるだけで十分だ。
 臨也の薄っぺらい背中がぺたりと門田の胸に当たる。
「同意を求めるな」
「でも怒らないドタチンが好きー。新羅には怒られたよ。シズちゃんの身体って、注射針もメスも通らないから、下手にケガをされると厄介なんだって。だから余計なことするなって。俺のほうがよっぽど酷いケガさせられてんのに随分な言い草だよね。治療費は払ってるんだから、俺だって立派なお客様なのに!神様なのに!」
 ぷぅっとわざとらしく頬を膨らませるのはまさしくわざとで、拗ねているように見えて間違いなく臨也は拗ねていた。拗ねているポーズをとっている、ように見せかけているのだ。裏の裏は表である。
「岸谷にとってお前は、もし店だったら出入り禁止食らうような客だってことだろう」
「アハハ、ひっどいなぁ!」
 軽やか過ぎる笑い声が響く。その声を聞きつけた教師に、授業をさぼっているのがばれたらどうしてくれる。
 臨也はするりと門田の腕から抜け出して、風と戯れるように靴先でコンクリートの地面を蹴りながら、他に誰もいない屋上の上をケンケンパと跳ねた。
 体温の低い臨也だったが、離れるとやはり温もりのある人間だったのだと当たり前のことを思い知る。空っぽになった腕が、やけに寒い。
 膝の上が物足りなくなったので、横にのけていた本を再び手に取った。読むでもなしに、しおりをはさんだページを開いた。
 手持無沙汰だったのだ。
 両腕を大の字に広げた爪先立ちで、くるりと意味のない一回転をした臨也が、門田の手元の本が風にあおられてぱらりと音を立てるのを見て、猫のような目をすぅっと細めた。血潮のような瞳は、僅かに揺らめく。
「…俺、ドタチンのこと好きだけど、ドタチンのそうゆうとこ嫌いだ」
 楽しそうなテノールが一瞬にして凍りついて、低く尖った声がぴしゃりと告げた。
 体重のない足取りで、ゆらりと臨也が近づいてくる。最初と同じように本の上に影ができたが、門田は顔を上げなかった。きっと、臨也はあの造形美に満ちた相貌を歪めて、くしゃくしゃになった顔で笑っているのだ。そんなものは、見たくなかった。
 不意に上から本を奪われた。
「返せ」
 無駄だとわかりつつ、腰をあげぬまま手を伸ばせば、ひょいっと持ち上げられて逃げる本。不可抗力で見上げる形になった臨也の唇がツンと尖っていた。
 完全に拗ねた表情だ。……ガキかよ。
「俺、本を読んでるドタチン、大ッ嫌い」
「読んでいたわけじゃない」
「でも邪魔なんだもん。そこにいるのにそこにいない。俺の話を聞いてくれるのに、俺と会話をしてくれないし、顔も見てくれないし、別の世界にいるみたいだ」
「来れば構ってやってるだろ。膝も貸してやる。それに、別の世界にいるのはおまえだろう」
 最近、臨也がよくない連中と関わり合いになっている、というのは校内の一部では有名な事実だった。壮年の男と親しげに話しているのを見た、とクラスメイトが言っていた。教室の片隅で交わされた何気ない噂話だったのに、何故だかそのことが脳裏にこびりついて消えない。
 臨也は否定しなかった。
「ドタチンが俺に優しいのは、ドタチンが俺に興味がないからだ。俺がドタチンを巻き込まないのは、俺がドタチンに膝を借りる以外の利用価値を見出せないからだ。ああそうさ、俺たちはそういう関係なのさ。―――ただの、無関係だ!」
 空から降るようなテノールが、ハムレットもかくやとばかりに悲痛な声で響いた。
「俺が悪いことしてもドタチンは怒らない。止めてくれない。俺は人の言うことなんか聞かないけど、ドタチンがいうなら考えてもいいのになぁ」
 止めようとしないから、そんなふうに思えるのだ。止めたところで結局止まるつもりなんか毛頭ない癖に。
 一瞬の沈黙の後、不意に「ふふっ」と吐息を交えて笑う声が、門田を馬鹿にしているようにも聞こえたし、己自身を嘲笑しているようにも聞こえた。
「ドタチンは誰が不幸になっても、俺が誰をどうしようとも、関係ないもんね。だから俺のことを嫌いにならないし、俺なんかに優しくしてくれるんだ。俺に優しいなんて、ドタチンってば酷いやつだ」
 何に使うつもりなのか知れないライターをポケットから取り出されて、蒼と赤の混じった炎を揺らめかせる。門田から奪い取った本の端をちりちりと焦がして、そのまま燃え上がって灰になると残骸が床に落ちた。
 呆気にとられる。
「馬鹿か!」
 流石に門田が怒鳴った。臨也が、それはそれは満足気に笑う。
「ゴメンネッ」
 悪びれもせずに、肩を竦ませて素直すぎる謝罪をして、きゅっと首に抱きついてきた。はぁ、とため息をついて背中に腕をまわしてやる。すっぽりと収まる、細い身体だ。
 猫のようにしなやかなこの身体が、門田以外に甘えているところはまだ見たことがない。そのことに優越感がないといったら、嘘になる。―――そういうとき、このどうしようもない折原臨也と言う生き物を、愛しい、と思わないでもない。そういうときだけだ。
「文字を見るくらいなら俺を見ればいいのに。ページをめくるくらいなら、俺に触ればいいのに。芥川よりもドイルよりも面白いストーリーくらい、俺が見せてあげるよ。だから、ねえ…」
 臨也の抑揚のない声は、徐々に小さくなって語尾はほとんど消えそうだった。そして臨也にしては珍しい、空虚な沈黙が流れた。
 ふわりと頬に当たる柔らかい黒髪がくすぐったい。男にしては甘すぎるシャンプーのにおいがする。平和島静雄は、離れていても臨也の匂いが分かるという。門田にはわからない。ただこうして吸い込んでみれば、いい匂いだと思った。
 腕の中に臨也がいて、臨也の匂いを吸い込んで、臨也の声を聞く、臨也のことを想う。臨也を―好きだ――などと思う瞬間は、活字の世界に胸が躍る感覚に、似ている。
 無性に本を読みたくなるときが、ある。
 腕に臨也がいないとき、臨也の匂いがきえたとき、臨也の声が聞こえなくて臨也のことを考えたくない時。手持無沙汰に本を持つのだ。
 視界を塞ぐ活字の海に溺れ、本を持った指先でページをめくり、すえた紙の匂いに包まれて、周りの喧騒が消えて、物語が脳裏に繰り広げられる。…それを別の世界だというなら、確かに門田は逃避しているのだろう。
(でも俺は、臨也と同じ世界にはいたくない)
 臨也の言う、臨也と門田の無関係は、門田の恋だ。門田は臨也に恋をしている。
 門田は臨也を甘やかしたけれど、臨也を止めない代わりに臨也を庇う真似もしなかった。ただ、彼の望むまま、膝を貸してやった。
 間違っても、翼を失くした鳥が落ちるように、自らを壊すみたいに人を愛していく臨也を愛してやることなど、門田にはできない。多分、誰も愛しやしない。
 そうして、存外傷つきやすい臨也の心が、悲鳴を上げるのだ。  自業自得だと、誰かは笑う。
 臨也に傷つけられ、壊された人々が、指を指して嗤う。
 それでも臨也は止まらないし、また誰かを傷つけて壊して不幸にして、嫌われて憎まれて胸の内にわだかまる感情の渦が、さらに凶悪な衝動となって、永遠にループするのだろう。――――それで、いい。

(いつか臨也が泣けばいい、壊れればいい、死体でも、骨でも、幽霊でも、とにかくズッタズタになってしまえばいい。―――そして、俺のところに帰ってくればいいんだ)

 自業自得だと誰かが笑い、臨也に傷つけられ壊された人々が指を指して嗤う、そうしてその世界から追放された哀れな子猫を、こちらの世界から拾ってやりたい。深海に落ちた、宝石を掬いあげるように、優しくしてやる。
 舞台から落ちてきた折原臨也を、シナリオに名前のない男が攫ってゆくのだ。

「臨也」
「なあに、ドタチン」
「今はまだ、膝だけだからな」
「膝だけでいいんだよ、ドタチンは」

 今はただ気まぐれに甘えて触れ合って、思いも言葉も何一つ重ならない、異世界人のまま。





END

習作。
最悪なドタチンが見れるのはプラセンだけ!…すみません。

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