… と い う 夢 を 見 た ん だ (晴)



死ネタ及び流血描写を含みます。




 まるで今日と言う日を祝福するかのような、澄み渡った青空だ。お天道様まで俺に喧嘩を売っているとしか思えない。
 見上げた空に掌をかざしてみれば、真っ赤に流れる血潮は透けて見える代わりにぼたぼたと滴り落ちてアスファルトを汚した。コートの下はもっと酷いことになっていて、湧水のように俺の命が流れ出ているのだろう。
(死ぬほどのケガだと、逆に痛くないのか)
 最期の最後で新たな発見だ。
 できるだけ長くこれから死んでいく己を感じていたくて、重くなる瞼と遠のく意識を叱咤した。視力は既にほとんどそげ落ちている。白く濁った目で、狭い池袋の空を見つめた。
 こんなふうに空を仰ぐなんて、いつぶりだろう。学生の頃はよく、学校の屋上で新羅たちとご飯を食べたりしたなあ。授業サボってドタチンの膝の上で寝たこともあったっけ。あの時の空は、もっと広かったような気がする。
 いつからか俺は、空を見上げるより高いところから人を見下ろしてばかりだった。晴れていようが雨が降っていようが、嵐だろうが雪だろうが、人間の営みがそこにあることに変わりはなくて、俺はそれを見るのが好きで、人間が好きだった。―――そして、ただ一人を嫌い抜いていた。
 池袋の景色が流れていく。逃げて追いかけられて、駆け巡った日々だ。
(走馬灯とか、マジで死亡フラグじゃん)
 旗どころかサンシャイン60に届きそうな塔が立っている。
 あっけない終わりだなあと思った。
 俺はもとより死後の世界など信じてはいない。ヴァルハラなんてものを探そうとしたこともあったけど、信仰っていうものはどう言い繕おうとそう簡単に変わるはずもなく、いざ死ぬとなったらやっぱり自分と言うものが消しゴムで消したみたいにこの世界から消えるのだと思うと、怖くて悲しかった。
 そして、だれも俺がこんな気持ちでいることなど、知らないのだ。俺はそれを誰かに伝えるすべが、最早ない。
 誰かに逢いたい、どんな最悪な奴でもいいから、俺と言う存在の消滅を、誰かの目に焼き付けてやりたかった。
 ぼやけた視界を振り切るように重い瞬きをひとつすると、こめかみを生ぬるい滴が伝った。ゆっくりと目を開けたとき、空には影ができていた。否、誰かが覗きこんでいる。
 もうその輪郭すら判別できないが、刺すように眩しい金色は間違いようがなかった。
 こんなときまで俺を見つけるその嗅覚は、本当に化け物だ。
 最悪なやつでもいいから逢いたいとは確かに思ったけど、最悪すぎる人選じゃないの、神様。…あ、俺、神様信じてないんだった。
「死ぬのか」
 声が、降ってきた。俺は空を見ることに集中してとりあえず相槌を打とうとして、声が出ないことに気が付いた。ヒュウと肺を絞ったような音がでた。
「何とか言えよ」
 俺が何か言ったらすぐにキレるくせに。
「笑うんじゃねえ」
 言われてから、俺は自分が笑っていることを知る。
 だっておかしいだろ、シズちゃんが俺を見つけてもキレないなんて。いつも黙れって言うくせに、黙ってたら何か言えとか言うし、死ねって言うくせに死ぬのかなんて聞くし。
 シズちゃんがどんな顔をしているのか俺にはもうわからなかったけれど、時々「なぁ」とか「オイ」とか降ってくる声は、シズちゃんじゃないみたいに弱々しかった。途方に暮れている……そういう表現がよく似合った。
 俺がちょっと黙っているだけで、シズちゃんはこんなに静かなのか。そうだ。シズちゃんは、ホントは優しい人間だ。俺以外にはきちんと優しくしてやれる、化け物だけど人間なのだ。
 俺がもう少し大人しくしていたら、もっと別の出会いとか付き合い方とか出来ていたのだろうか。
 ………なーんてね。
 そんなのは俺じゃないし、俺たちじゃない。殺るか殺られるか、俺たちの間にはそれしかない。結局俺はシズちゃん以外の人間の手に掛かってしまったが。まったく、無粋な人間もいたものだ……そんなところも愛しているよ。
(あーあ、シズちゃんを殺し損ねちゃった)
 やりたいことはいっぱいあって、あれだけ死にたくないと思っていたのに、思いつく心残りはそれだけだった。
 実はシズちゃんを殺す計画は現在進行形で、俺のいない今でも水面下で着々と進んでいるはずだ。まさか自分の死期なんて分かろうはずもない。俺は池袋や新宿の裏も表もグチャグチャになって、愛する人間たちのため、唯一憎い化け物を殺すため、ド派手なお祭りを起してやろうと思っていたのだ。
 俺が仕掛けた多くの爆弾は、俺一人が死んだくらいでは最早止まらない。それをたとえばこんなビルの屋上から見下ろしてやろうと思っていたのだけど、無理みたいだ。
 せっかく俺が企画したパーティなのにさ、俺が仲間はずれになるなんて実に酷い話だと思う。
 せっかく今度こそシズちゃんを殺せると思ったのに。これじゃ意味がない。
「シズちゃん」
 声になっただろうか。ごぽっと血が口から噴き出した。
「喋んな死ぬぞ」
 喋らなくても死ぬよ。だったら最後まで喋らせてよ。最期まで、俺が俺であるように。シズちゃんの大嫌いな折原臨也でいられるように。
 君の目に映っている俺は今、笑えているだろうか。ちゃんと、俺がここにいるのが分かるだろうか。

「死なないでね―――」

 はっきり言えた気がする。シズちゃん、どんな顔をしているかな。
 本当は殺してから死にたいけど、でも万が一あの世とか天国とか地獄とかいうものがあった場合、また出逢ってしまうとか冗談じゃないから、せいぜい俺を憎んで今日と言う日を忘れないでギネスの長寿記録を塗り替えて死ぬといい。
 そのころには俺も、生まれ変わる準備を終えているだろうから。
「……最悪だな手前……」
 シズちゃんが言った。うん、それでこそ俺だ。俺は最後まで俺でいられたようだ。大満足である。
 空は人生の歓喜に染まったような青空。雲ひとつないと言うのに、俺の顔には大粒の雨が落ちてきた。
 体温など疾うに消えた頬に、それはあまりにも熱すぎる。
「泣かないでよ、シズちゃん」
 どうやら俺の声は、もう届かなかったようだ。
 雨は、止まない。





























「……と言う夢を見たんだ」
 波江の淹れてくれたコーヒーを口に含んで言った。寝覚めはもちろん最悪だった。このコーヒーとどっちが苦いだろう。うーん、苦い。
 刺されたんだか撃たれたんだかは忘れたが、腹に穴があいて痛くないとか、夢でしかありえない。何故気付かなかった夢の俺。
「そうね、イタイ妄想でも信じてれば叶うかもしれないわね」
 いや、その夢じゃなくて。
 有能すぎる秘書は振り返ることもなくテキパキと書類やファイルを片付けながら、感情の見えない声で相槌を打った。
「自分が死ぬ夢って縁起がいいって言うし、いいことあるかもね」
 シズちゃんが死ぬ夢とかだったら、もっと縁起が良かっただろうに。夢の中でくらい、死んでくれてもいいと思う。夢ですら、あの男は死んでくれないのだ。
 舌打ちして壁を殴りたい衝動がふつりと湧くのを抑えるように、殊更努めて上機嫌に皮張りのデスクチェアをくるくると回しながら笑うと、波江が鼻で笑った。
「予知夢じゃないかしら」
 俺の夢より、波江のツッコミのほうがよっぽど痛い。正しい意味で。
「ねえ波江さん」
「なによ」
 顔は見えないままだったが、名前を呼んで返事がある。それって素晴らしいことだ。生きた人間同士だからこそできるのだ。
「俺が死んだら泣いてね」
「ええ、嬉し泣きしてあげるわよ」
 本当に痛いなあ。俺は声をあげて笑った。ありがとうって言ったら波江はファイルを片手に、使用済みの靴下をつまむような表情で眉間に皺を寄せて睨んできた。今日、初めてこちらを振り返った。
 夢を思い出す。俺が死ぬ夢。俺が死んで、シズちゃんが泣く夢だった。
 俺の死が俺の愛する人間を喜びに泣かせるのであれば、俺の命は無意味なものではない。しかし俺が死んで一番喜ぶであろう存在が、俺の唯一嫌いな人間…もとい化け物というのが実に腹立たしい。シズちゃんを嬉し泣きさせるつもりはないので、俺は意地でも生きてやらねばならない。
 ああ思い出せば思い出すほど、忌々しい夢だった。
 夢を見て目を覚ました俺は、泣いていた。あれは悔し涙だった。
 俺が死んでシズちゃんを喜ばせてやるつもりなど毛頭ないが、俺が死んでシズちゃんが嘘でも悲しむなど、あってはならない。俺が心からシズちゃんを嫌っていて殺したくて仕方ないと言うのに、俺が死んだくらいで翻るような軽薄な憎悪なんかいらないのだ。
 俺ばかりが憎んでいるなど、ずるいではないか。
 あまりの悔しさに胸が痛くて痛くて死んでしまいそうなくらいに苦しかったが、俺が死んだらあの夢は現実になってしまうかもしれない。それだけは避けねばならなかった。
 だったらどうすればいいのか、――――簡単な話だろう?
「あら、どこか行くの」
「ちょっと池袋まで行ってくるよ」
 フードの付いた黒いコートを手に取った俺に、波江が問う。行き先を訊ねているようで、ただ仕事を放棄した俺を責めているだけだった。
 今日はちょっと寒いから、コートの前もちゃんと閉めて気に入りのナイフもコートの隠しポケットに滑り込ませて、準備万端。全身で喪に服しているみたいな黒のコーディネート。だからいつでも死んでいいんだよシズちゃん。俺は泣いたりなんかしないから、安心してね。
「雨、降らないといいわね」
 波江は笑った。天気予報、見てないわけがないのに。
「夕飯までには帰るから大丈夫だよ。今日はカニ鍋がいいなぁ」
「そう。勝手に食べればいいわ」
 的外れな会話のようで、意外と成り立っているから不思議だ。夫婦みたいだなあなんて心にもなく思ったけど、言ったら今日の夕飯が用意されなくなってしまうので言わずにおく。
 外は、人生の歓喜を映したような青い空。降水確率ゼロパーセントの太陽は、新宿も池袋も俺の愛する人間たちを平等に照らしている。俺にも君にも誰かにも。
 明日も明後日も晴れやかな空を拝むため、今日こそはシズちゃんを殺そうと改めて誓う、俺なのでした。









「殺すか死ぬかふたりでひとつ」






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