池 袋 の ガ イ ド ラ イ ン



平和島静雄と折原臨也は、池袋ではその名を知らぬ者のいないほど有名な、歩く危険地帯である。人でも物でもなく、危険地帯。
池袋で黒いもふもふコートの眉目秀麗を見かけたらとりあえず半径30メートルには近づくな。必ずすぐに金髪サングラスにバーテン服の兵器が現れる。静雄と臨也が顔を合わせた瞬間、そこは平和憲法を振りかざす日本国の首都ではなく、魑魅魍魎阿鼻叫喚死屍累累の激戦区域になるのだ。
流れ弾ならぬ流れゴミ箱にご注意。道路標識千本ノックのボールになりたくなければ、折原臨也の近くにいてはいけない。盾にされるから。
本屋に数ある池袋のガイドマップの良否を見極めるポイントは、この不規則移動式の小規模激戦地帯の注意事項があるかないかだという。これ、池袋の知恵袋。誰がうまいことを言えと。

「俺は世界で唯一、シズちゃんが大嫌いだ!」

普段ならば青空から直接降り注ぐような柔らかいテノールが、まるで悲劇を演じるヒロインのように悲壮な声で青空をつんざいた。

「シズちゃんが嫌いすぎて生きるのがつらい!シズちゃんを見てるだけで、吐き気がする!心臓がギュウギュウと締め付けられるし、目眩がするし腹が立って奥歯がギリギリする!考えるだけでご飯も喉を通らないのに、いつ死ぬかどう殺すか、頭から離れない!考えないようにすると息の仕方も忘れるくらい、シズちゃんを貶めて騙して死に追いやることしか考えられないんだ!なんという時間の浪費だろうか!俺は無駄が大嫌いだと言うのに!ああ忌々しい!人を憎むことって、何て疲れるんだろう!早く死んでくれないかな、俺のために可及的速やかに最大級の屈辱と最高の絶望の中でのたうち回って、死を与えてやる心優しい俺に感謝するくらい生きることに苦しんで死ね!」

くるくるとよく回る舌は、ときに彼の持つナイフより鋭い刄で敵を刺す。
普段、その見えない凶器は甘い毒を含んだ柔らかい真綿の姿をしていることが多いが、この時は間違いなく研ぎ澄まされた刀だった。
分かりやすい罵詈雑言は、あからさまに一人の人間のみを傷つけようとする。

「だぁあぁあうるっせぇえ!!!俺のせいで生きるのが辛いなら、大人しく死にやがれクソノミ蟲がぁあぁ!!」

臨也の言葉に重なるように、低く唸る獣の咆哮がこだまする。
青い細身のサングラスの下に爛々とした怒りの焔を宿して、ビキビキと血管を浮き立たせて、バットを振りかざす野球選手のように道路標識を軽々と振り上げた。

「毎回毎回毎回、手の込んだうっぜぇ嫌がらせばっかしやがってよお!!今日こそ、プチっと踏み潰してやる!盛大にぶち殺してやる!!全殺ししてやる!!!」

池袋最強の名は、伊達じゃあない。
無関係の通行人すら、ビクッと身の危険を感じ震え上がる。だというのに、ビリビリと電流のように周囲に満ちるその殺気を一身に浴びた彼は、あはははと大きく笑った。

「毎回毎回毎回、簡単に引っ掛かってくれるほうがどうかと思うんだけど?あっ、シズちゃんには学習能力なんてないもんね!あはっ、ごめんねぇ。俺、シズちゃんを買い被ってたみたい!」

フルスイングされた道路標識をひょいっと躱した臨也は、赤地に白で「止まれ」と命令する丸い鉄の面にひらりと降り立った。
饒舌な言葉は止まず、繰り出されるナイフも止まらない。勢いのついたナイフは、しかし勢いに余って静雄の鼻先を掠めるのみに終わった。かすり傷にすらならないのだから、忌々しい。
ちょっとびっくりしたように目を見開く、間抜けな頬をぶん殴りたかったが、多分こちらの手が負けるだろう。
臨也の整った綺麗な顔立ちに似合わぬ、盛大な舌打ちが響く。

「シズちゃんさぁ、俺のこと卑怯だ何だって言ってくれるけど、俺がいつだってシズちゃんを騙して苦しませて精神的に責め苛んで殺そうとしていることが分かってるなら、少しは警戒しろよ。俺はシズちゃんを罠にかけて、ズタズタのボロボロにして死なせることにこんなにも心を砕いてるというのに、シズちゃんは俺のことなんか知りませんとばかりに油断しまくっちゃって、いっつも後手に回ってばっかり。ホンット、ムカつくよね!俺への憎しみが足りないんじゃない?それって俺に失礼だよ!」

その間、臨也の足取りはふわりふわふわと、舞うように軽やかなステップを踏んで、空を切る静雄の容赦ない攻撃を避け続けていた。
よく舌を噛まないものである。
その器用な舌先から紡がれる、歌うように滑らかな言葉の羅列が、静雄を更に荒らぶらせるのだとは、当然ながら分かっていた。分かっているからこそ止められない。
口を開けば静雄を怒らせると分かり切っていても、口を閉ざせば臨也は静雄に負けたことになるのだ。それは、臨也にとっては死である。
平和島静雄に嫌がらせをしてこその折原臨也で、理屈の通じない化け物に理論武装してこそ、臨也は生きられるのだから。
十中八九、静雄は臨也の言葉なんか半分も聞いちゃいないし、臨也の言葉の合間にもそれをかき消す静雄の怒声は響いた。

「憎しみが足りねえだぁ?」

そこだけは聞こえた。静雄は唇の端を歪ませて、尖った犬歯を覗かせながら、低く唸る。
彼の身体中に駆け巡っているのは、果てしない怒りだ。衝動を抑え切れない柔な理性は完全に焼き切れて、逆に冷たく燃える炎になった。

「臨也君よぉ、俺がどれだけ手前を嫌いか、まぁだ分かってねえな?」

いつの間にか投げ捨てていた道路標識の代わりに、静雄の手の中には引っ込抜いたガードレールがあって、それをアスファルトに深々と突き刺して腕をかけて寄りかかる。煙草を一本取り出した。すぐに噛み切ってしまい、地面に落ちたけれども。
静雄にしては大人しい声だったが、臨也の安心材料になろうわけがない。ナイフは相変わらず手の中でしっかりと静雄に向けられていた。

「俺はよぉ、平和に生きたいって常々言ってるじゃねえか。それを邪魔してんのは誰だ?手前だろうがよ、臨也ぁ」

値上げも近いこの時期に、もったいない結果になった煙草の灰を踏みつけて、別の道路標識を掴んだ。簡単な理由だ。振り回す武器には、ガードレールより道路標識のほうが手にフィットする分、向いているのだ。
引っ込抜いた進入禁止看板を引き摺って、ざりざりとアスファルトを削りながら臨也のナイフに向かってゆらりと歩きだす静雄は幽鬼の類のようで、腕力に物言わせて振り回しながら猪突猛進してくるより、余程恐ろしいものがある。

「そんな俺が!平和に生きたいこの俺が、だ。たとえ俺が犯罪者になっても手前を殺してやると誓ったんだ。どんだけ覚悟がいると思ってやがる?全部全部手前がムカついてムカついて仕方ねえからだ。それを憎しみが足りねえだ?」

道路標識がゆらりと天に向かって振り上げられて、静雄の手が握る部分が握力だけでひしゃげていく。
びきびきと音を立てているのは金属の悲鳴だったが、比例するように彼の血管が浮き立っていくので、臨也の顔は僅かに青ざめた。
この化け物め!

「ふざっけんなよいざやぁあぁあ!!!」

ついに賽は投げられた、否、道路標識は投げられた。
真っ直ぐ、ストレートに臨也を狙ってくる。
もちろん臨也は避けた。しかし第ニ撃がすぐにくる。

「俺は手前が嫌いだ!憎くて憎くてムカついて、夢の中で何ッ回も殺してやったのに、現実の手前が生きてるだけで台無しだろうがよ!何で手前みてえのが生きてんだ?手前が生きてると思うだけで、全身に鳥肌が立ちやがる。夜も眠れねえ!池袋にいりゃあ手前の匂いが充満して落ち着かねえし頭真っ白になって息切れしそうになる。池袋にいなきゃいないで殴りに行きたくなるし、俺の人生は手前を殺すことでいっぱいなんだよ!手前を殺せりゃ思い残すこたぁ何もねえ!!俺を殺したきゃ手前が死ね!」

ぶん投げた道路標識が臨也に当たることなく何かの店の壁に直撃したのを、臨也に蹴りをくれるついでに引っ込抜きに向かって、再度構える。
……という荒技を、言葉の合間に何度か繰り返し、更に逐一零される臨也の嘲弄が、水を差すどころか火に油を注ぐのだから、静雄の腹の中はぐつぐつと煮える一方なのだ。
公共の設備を何個も何個も犠牲にしないのは、僅かながらの理性によるものではなく、本能が無意識に合理的な喧嘩方法を考えた結果だ。対折原臨也用の戦闘機モードになっている平和島静雄に理性なんて機能はない。

「あっはは、俺と心中してくれるの?ありがとう!」
「あ゛ぁ!?」

臨也はいい加減使い物にならなくなったナイフを、投げ捨てた。空っぽになった手の平を、困ったように空に向けて肩を竦ませる。

「愛されてるなぁ、俺!」
「手前は目も耳もポンコツか?」

空き缶をポイ捨てするのと同じように、道路標識をポイッと放った。
ポケットにしまった手が、煙草を取り出そうとして、先程捨てたそれが最後の一本だったことに気が付いて舌打ちする。

「でもごめんねえ、人間が大好き折原臨也は、」
「ああ、手前は頭もいかれてやがるもんなぁ。俺はな、」

二人揃って歪めた唇の端は、世界の終焉のようにまがまがしい。
互いに話を全く聞いていない。けれど、しっかり耳に届いている。

「君のことが」
「手前のことが」

二人の声はほとんど重なっていて、高揚したテノールとドスの利いたバリトンが不協和音を奏でながら、

「「だいっきらいなんだよ!!」」

世界の中心で愛を叫ぶ代わりに、池袋の片隅で憎悪を叫んだ。





痴話喧嘩なら余所でやってくれないかな。


ヤンデレのうざやに嫌われて夜も眠れない。


ブラウザバックプリーズ
inserted by FC2 system